2018年1月 9日 (火)

Stairway to Heaven

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 ル・コルビュジェ夫妻の眠る共同墓地は、コミュナル・ロクブリュヌ=
 カップ・マルタンというそうです。

 カップ・マルタンと言えば、日本では赤いきつね、緑のタヌキとして
 知られますが、おフランスではちょっと違うようで、、、失礼。もとい

 麓の海辺の町から、その村の共同墓地まで歩いて1時間弱。
 きつい場所はありませんが、細い坂道の入り組んだ路地と階段を
 てくてくてくっと上がって行きます。
 クルマを使えば、迂回はするものの、もっと速く簡単に辿り着ける
 でしょう。しかして歩いていくことに価値があるように思いました。
 村への小さな標識を見落とさないように、時々思い出したように町を、
 海を振り返りながら、一歩づつ天国への階段を登って行きます。

 長閑で、途中猫がいたり、花が咲いていて、道中は飽きさせない。
 村に着くと、子供たちの声がして、オリーブオイルを使った夕食の
 匂いがしてきます。
 なんというか、共同墓地という形をとりながらも生活の中に、まだ
 死が切り離されていないように思えました。


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2018年1月 8日 (月)

Communal

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 新年そうそう棚卸し。

 夏休みに南仏へ出かけました。
 自分の気になっていたこと、言うなれば宿題を果たしに。

 私は特に建築の仕事をしているわけでもないのに、思えば
 これまで結構な数のル・コルビュジェの手がけた建築を
 見てきました。
 パリをはじめとして、ベルリンやローザンヌで眺めてきた
 それらは、ル・コルビュジェが残した建築という形でした。
 それは本人の痕跡と言ってもいい。どこへどれだけ訪れても、
 その痕跡を探り辿るだけでした。

 そしてこれが、ル・コルビュジェの眠るお墓です。
 なんというか、これまでの建築のような痕跡ではなく、
 ル・コルビュジェ本人に一番近づいた瞬間になります。
 ただ彼がもはや生きてはいないというだけであって。
 
 そのコンクリートで造られた墓の、直筆のプレートの名前に
 手で触れると、石のそれとは違い意外や温かい。
 それは彼の体温を感じさせるようで、さすがに胸にせまる
 ものがありました。

 会ったこともない人なのに、何故こんな思いになるのか。

 これまで南仏へは仕事も含めて何度か訪れていました。
 カップ・マルタンへはニアミスを繰り返していました。
 ようやくここを訪れることが出来て、感無量とはこのこと
 かもしれません。

 夏の夕暮れ。もうすぐ閉門時間の20時。
 でもそのことを咎める人などいません。
 村の共同墓地には、たった今私しかいないのですから。

 眼下に地中海が眺められ、美しく、そして静かで平和な場所です。
 お墓のプレートの意匠は、海の水平線と夕暮れ空の交わる黄色で
 しょうか。眼の高さを合わせると、その意匠と実際の水平線が
 重なります。

 帰り際、墓地の門の脇にどういうわけか、詰所があるわけでも
 ないのに小さな黄色いポストが置かれていて、私はル・コルビュジェ、
 本名シャルル・エドワール・ジャンヌレさんへ手紙を書いて
 みたくなりました。


   

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2018年1月 1日 (月)

恭賀新年

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 Saint Marie de La Tourette by Le Corbusier 1957


 昨年も拙ブログをご笑覧いただき、ありがとうございました。
 また更新が滞り失礼しております。
 本年も気長にお付き合いの程、よろしくお願い申しあげます。

 皆様に幸運な一年が訪れますように。

 2018年 元日 UMAGURUMA

  

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2017年7月 1日 (土)

ミライノマチ ジユウナサンポ リョウジンヒショウ

 
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 42階のスイミングプールの窓から、無人運転のモノレールが高層ビルの
 谷間をまるで爬虫類のように這っていくのが見えた。
 かつて東京が一面の焼け野原だったなんて、東京に生まれ育った自分でも
 俄かには信じられない。外国人観光客には尚更だろう。
 過去が現在に影響を与えるように、未来もまた現在に影響を与える。
 そう言ったのはフリードリッヒ・ニーチェだ。

 汐留のホテルにチェックインして、タイマーを掛けて15分仮眠をした。
 まだ頭がぼんやりとしたまま、どこかで夕食を取ろうとホテルを出て
 地下通路を歩いていたら、まるで未来の街に迷い込んだかのような
 錯覚に陥ったのだった。

 地下通路にはコンビニもタワレコもあるのに、煩くて見苦しいポスターや
 看板の類が一切ない。なんだか自分の知っている猥雑な東京らしくない。
 歩いても歩いても同じ風景が繰り返され、まるでテキスチャーマッピングで
 作られたコンピューターグラフィクスの街中を歩いているかのよう。

 暑くなく寒くもなく、空気や風の流れが感じられなくて、緑もない。
 それって未来には、もしや季節が失われているということか。
 そして週末の夕方、駅に向かって歩いている人の数は多いのだけれど、
 話し声がしないのだ。誰もが見えないバリヤーを張りながらただ黙々と
 エスカレーターや階段の続く通路を急ぎ足で歩いている。
 未来には、公道での私語が禁止され、監視されているのかもしれない。

 どこか無機的で不思議な違和感を感じながら、エスカレーターを上り
 回転扉を通り抜けると、ポルシェのショウルームが目に入って
 ようやく地上に、見慣れた銀座の街の景色に辿り着いた。

 薄暮の夜空を見上げると、とりあえず皮膚を溶かす酸性雨は降ってなく
 警察のドローンも飛んでいない。
 そして不意に外気には温度があったことに気づく。
 夏の夜の始まる前の、むっとしたその生暖かさから想うのは、
 地球規模の温暖化は進みつつあるだろうということ。まるで
 時空を超えて時計が西暦2017年の今に戻るその一瞬、
 大気に歪みが生じて発熱したかのようだった。思わずポケットから
 iPhoneを取り出し、時刻とそして年号を画面で確かめる。

 新橋へ走るタクシーの運転席には、まだ人間が乗っていた。
 横断舗道の信号が変わるのを待ちながら周りの人々を見ると、
 ビニール袋に入ったバイオ化学兵器を隠し持っていたり、自爆用の
 ベストを着込んだイスラム教徒はこの銀座のはずれにはいなさそう
 だった。ただ眼の前に見えていないだけで、たった今大規模な
 サイバーアタックを狙っている輩はどこかにいて、予め対になって
 いるかのように監視するシステムもまたどこかにいる。
 世界はどうにか危ういながらもバランスしていそうだった。

 銀座通りに入ると、観光バスから降りてきて高速道路のガード下に
 大勢屯しているのは中国人観光客で、全員が国慶節の爆竹のように
 大声で喋り続けている。
 彼らはこれまで4000年も喋り続けていて、もう100年ぐらいは
 息継ぎしないで喋り続けることができそうだ。彼らのスマートフォン
 からは切れ目なく画像が吐き出されて、画像も声も共にどこでもない
 仮想の何処かの雲へ吸い上げられて行く。そして銀座通りを背景にして
 全員が同じポーズであることに兵馬俑を連想する。
 果たして100年後の彼らは、100年前の旧式なデジタルフォーマットを
 無事に掘り起こして再生することができるだろうか。

 やがて銀座通りは中国が占拠する。その可能性を誰が否定できるだろう。
 日本企業のいくつかは既に資本主義という経済戦争で侵略にあっている。
 大英帝国の自動車メーカーのほとんどはかつて植民地だったはずのインド
 資本になっていることを思えば、そうなることは容易に想像がつく。
 それが中国企業によるものか、中国政府軍かが問題なのかもしれない。
 でも心配はいらない。栄枯盛衰は世の常なのだから。

 もっとシリアスに考えなければいけないのは、2020年のオリパラを
 前にして東京に直下型地震が起こることだろう。もしそうなったら、
 その時どうするという対策やシナリオを誰が想定しているのか。
 誰もが思っているはずなのに、誰もが「起こるかもしれない」ことには眼を
 背けようとしている。その前にコンビニからエロ本コーナーを排除する
 方が優先なのだ。

 バッグも荷物も何も持たず、手ぶらで銀座通りを歩くのはこの上なく
 気分が良いことに気づく。
 そのうち財布も鍵もスマートフォンも持たずに済む日がくるだろう。

 子供の頃は、駄菓子屋のための小銭しか持たずとも何も問題がなかった。
 誰かに傷つけられるような、得体の知れない不安もなく、眼には見えな
 かったけれど、何かに守られていて、それが自由の正体だった。
 やがてAIを始めとするテクノロジーが、そんな子供の頃の身軽な自由さを
 取り戻してくれる。それはシリコンヴァレーの似非ヲタクが言うような
 新しいUXなどではなく、身体が覚えている懐かしい感覚である。

 そしてメタマテリアルの服が出来たら裸で街を歩けるようになる。王様の気分で。
 でも服の下は素っ裸は落ち着かないのでステテコやフンドシや半ズボンぐらいを
 申し訳で身につける。女性もタンクトップやキャミソールなんて中途半端じゃなくて
 ワコールやエレスやヴィクトリアシークレットやピーチジョンがいい。
 フェミニズムの再構築だ。ほんまかいな・・

 子供の頃は春夏秋冬何処にいくにも半ズボンだった。未来は反重力
 ズボンだろうか。地に足が着いていなければこれ以上の身軽さは無い。
 靴も履かずに済んで裸足のままでも足は汚れずに、家に上がる時も
 怒られることがない。
 身体性を伴って、過去の記憶を過去より快適に拡張できた時に、本当の
 意味での自由な散歩が可能になる。

 遊びをせんとや 生まれけむ
 戯れせんとや 生まれけむ
 遊ぶ子供の声聞けば
 我が身さえこそ動がるれ

 梁塵秘抄である。

 銀座のデパ地下はどれがロボット店員で、誰が人間の店員なのか。
 見分けるコツは振る舞いで、気が利いて人間らしいおもてなしをする方が
 ロボットだ。女性型は絶妙にシンメトリックを崩されて美形だけれど、
 性ホルモンへの刺激はパラメタにはなく、客が無闇にムラムラこないように
 社会環境に配慮されている。ラブドールとの仕様の違いはその部分だけ
 だろう。そんなロボットがうまく働けるように動き回っている方が人間だ。

 デパ地下はどこも冷房が効き過ぎていて寒い。四次元の自己組織化で出来た
 メタマテリアル服は温度条件がタイトで、デパ地下ではうまく身体を消すこと
 ができない。強冷房は食品バイオテロと万引き防止の両方を兼ねているのだ。
 デパ地下で山下清画伯みたいな半裸の格好をした人を見たら、それは未来
 からやってきた人だと信じてみるてすと。

 ふと思いついてアバクロを覗き、ユニクロをパスして、ノラクロを探す。
 が、見つからない。反重力ゲートルを履いたノラクロのファッションは
 20世紀の不確かな記憶にしか存在しないのだ。
 ビームスにもバーニーズにも、ストリートマーケットにも反重力素材の服は
 みつからない。遅れている。こまったでギャルソン。

 ピカソは80歳を過ぎて、ようやく俺も子供みたいな絵が描けるようになった
 と言うのだけれど、歳をとると誰でもが子供になる。
 認知症も手がかかる子供みたいなものだと言えなくもない。
 但し子供は徐々に手が掛からなくなるが、認知症は徐々に手が掛かるよう
 になる。つまり脳内にβアミラーゼを溜めないためには子供の頃のような
 感性をもって遊ぶことだ。
 都合の良いことに、未来はAIやロボットが奴隷のように休みなく働いて
 くれるので人間の仕事は労働ではなくなる。仕事、つまり仕える事
 という概念もなくなるので、人間のやることは遊びに近くなる。

 AIやロボットに仕事を奪われると心配する人たちは、これまで週7日の
 うち5日間以上のほとんどの時間を労働で使い、高度成長期の慣性を
 止められない会社に洗脳され社会に去勢されてしまっていて、遊びという
 創造力が足りていないのだ。いや、創造力などという大其れたものではなく
 子供の頃にお金も何もなくても工夫しながら遊んでいたことを思い出せ
 なくなっているにすぎないのだろう。

 会社を休むことに罪悪感を感じるような人には未来がない。
 日本の政府は元気な高齢者でいることをアジテートして、企業にも定年を
 延ばせるだけ延ばして税金を払い続けさせろという。
 ベーシックインカムのシステムも実現できる国は恵まれた資源国だけで、
 そもそもものづくり大国とやらは自転車操業と同義なのだから。

 そんなロクでもないことを、夜の銀座通りを散歩しながらつらつら考える。
 本当に身軽で自由になれるのはまだもう少し先でも、そのココロになって。
 
 そろそろお腹が空いてきた。
 そうだ、ロクでもないってことで、シックスのデパ地下に戻って弁当を買って
 ホテルの部屋で食べよう。
 いまのうち、マイクロプラスティック汚染のない魚、江戸前鮨か、プチ奮発
 して人造肉ではないステーキ弁当ってやつだ。
 子供の頃は不二家の苺ショートで充分に幸せだった。
 そうだ、それがいい。


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 人のブログは真剣に読まないこと。それがいい。
 
    

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2017年6月24日 (土)

Boom Technology's XB-1

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 ロンドンのヒースロー空港を車で行くと、入口のロータリーにコンコルドの
 大きな模型が飾ってある(今もまだあるのかな? ブリティッシュエアの
 カラーリングです)。

 その姿は誇らしげではあるのだけれど、今は、いやこれからは、
 もう模型でしかその姿を見られないだろうと思っていたのです。
 何故って、未来の航空旅客機は環境問題を解決するために、やがて
 電動化されるだろうと。仮に化石燃料を代替する藻類や大腸菌が出来た
 としてシリーズハイブリッドの形式が本命。そう考えているので。

 しかしながら、6月のパリ航空ショウで新世代のコンコルドとも呼ぶべき
 超音速旅客機の開発が公開されたのです。
 (ここで取り上げたプレス記事は昨年11月のもの)

 名前はXB−1。米国の航空ベンチャーBoom Technology社による
 もので、曰く「ジェット時代の夜明けから60年、私たちはまだ1960年代
 の速度で飛んでいる」「コンコルドの設計者には、手頃な価格での超音速
 旅行を可能とする技術がなかったが、今ならできる。2017年末には
 初飛行が予定される最初の航空機を公開できることを誇りに思う」とのこと。

 ベンチャーとは言いながらファウンダーはAmazon。
 NASA、SpaceX、Boeingの出身者が集い、現在の航空業界の頭脳を
 結集したBoom Technology社。そのバックにはGEとVirginがつき、
 これまでに培った航空技術のすべてをつぎ込むという。
 とは言うものの、ダグラスDC−3との共通項がひとつ。安全性と
 信頼性が実証済みの技術(空力、材料、推進力)を駆使するとのこと。
 リスクを抑える航空機設計のセオリー自体は変わらないのでしょうが、
 技術革新によってマッハ2.2の超音速、高度6万メートルでの飛行、そして
 アフターバーナーのないターボファンエンジンで、燃費もコンコルドより
 30%向上するという。
 ちなみにXB-1のターゲット層はかつてのコンコルドと同様。
 その価値はズバリ、時間。
 ロンドンーニューヨーク間を3時間程、サンフランシスコー東京間を
 5時間で飛び、日帰りを可能にするとのこと(フライト時間は兎も角、
 その出張で日帰りを望む人がどれほどいるか判りませんが・・)。

 かつて超音速は航空機の夢の形のひとつでした。経営学には
 コンコルド効果という言葉がありますが、確かに超音速は実現できた
 けれど、莫大な開発費と期間、燃費、騒音、高額の運賃など超音速
 以外の利点はほとんど見出せなかった。
 2000年のパリでの墜落事故、そして911同時多発テロの影響で事業
 収益は更に悪化し、その役目を終えたのはまだ記憶に新しいところ。
 残念ながらコンコルドの拘りは、人を幸せにしなかったと言えまいか。
 その終焉は航空業界ではじめての後退と呼ばれた。

 例えば身近では、ワープロによって漢字が書けなくなった。
 自動車の登場によって移動の自由と引き換えに人は歩かなくなった。
 インターネットやスマートフォンの登場によって、生活は便利にはなったが、
 ものを考えなくなった。
 昨今SDGsが謳われているけれど、もしかしたらそれらは人に無理なく沿う
 テクノロジーによって実現されるのかもしれない。
 インターネットによる一瞬の検索よりも、広辞苑を開くことが考える間を
 与えてくれるように。
 ネットワークオーディオがどれだけ高音質で安価であっても、ヴァイニール
 (レコード)の音楽が愛されたりするように。
 DC−3が人を魅了する理由も、どうもその辺にあるまいか。
 選択肢がある豊かさを、もちろん否定はしないけれども。

 ギリシャ神話のイカロスは、蝋で固めた翼によって自由に飛翔する能力を
 得る。が、太陽に接近し過ぎたことで翼が溶けてなくなり、墜落して死を
 迎える。
 イカロスの物語は人間の傲慢さやテクノロジーを批判する神話として知ら
 れるのだけれど、しかしながら戒めの教訓とは逆に、自らの手で翼を作り
 飛び立ったイカロスを挑戦と勇気の象徴と解釈する説もある。

 イカロスは時を経て蘇り、再び大空に羽ばたいたという続編がはたして
 ギリシャ神話にあるのかどうか、私は知らない。

 
 


 さてDC−3と新旧コンコルド、いずれにも機械としての矜持があること
 には違いない。
 やがて航空旅客機も電動化と超音速で二極化するのでしょうか。

 XB-1はパリ航空ショウの発表では2020年に初飛行、2023年に
 市場参入を予定しているとのこと。

 
 

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2017年6月10日 (土)

Breitring's Douglass DC-3

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 ブライトリングの持っているダグラスDC−3が日本を訪れた。
 ワールドツアーの途中、勿論時計のプロモーションを兼ねて震災復興の
 チャリティイベントとして熊本、神戸、会津と福島へ。
 そこから幕張のエアレースへエキジビションフライトをするという。

 そして6月初めのよく晴れた日曜、東京湾へ自転車を走らせた。 
 福島方向から東京湾へ飛んでくるとしたら、飛行ルートとして待ち構える
 べきは江戸川の河口、三番瀬だろうと狙いをつけて。子供みたいだ。

 ところで、現役のDC-3を見たことってありましたか?
 私はあります。アテネ空港からサントリーニ島へ渡るときオリンピア
 (オリンピック)航空で偶然。超ローカル線とはいえ、そろそろ20世紀が
 終わろうとしている90年代。
 成田を出てから3回の乗り継ぎを重ね、28時間以上不眠の時差ボケで
 フラフラでしたが、その機体を見た途端に目が覚めました。
 離陸前に窓から格納庫を見たら、同じくデ・ハビラントと思しき機体も
 見えて、これまた興奮。
 その時でさえ、よくまぁ生きているもんだと感心した覚えがあります。
 何故って、その当時の空の旅は超音速(コンコルド)が舞台の主役であり、
 大型大量輸送(747)が主流だったのです。
 もはやロートルのプロペラ機は急速に忘れ去られる存在でした。

 ライト兄弟の有人初飛行が1903年の12月17日。
 ダグラスDC−3の初飛行はそれから32年後、1935年の同日
 (ドナルド・ダグラスが表敬でその記念日を選んだ)。
 両機の間がたった32年と考えたら、航空機の歴史がいかに飛躍的、
 まさに飛ぶ鳥の勢いだったか。途中リンドバーグの単独大西洋横断が
 1927年と考えても、そこからDCー3まで5年なのです。
 今風に言えばエクスポネンシャル、指数関数的進歩。
 オール金属製モノコックや引込み脚、可変ピッチプロペラといった
 その後の航空機としての基本構造も然ることながら、夜間飛行のための
 開放式寝台とキッチン!まで備えていたというのですから。
 前型のDC−2までに培った経験を積み重ね、技術リスクを最小限にし、
 叡智を結集して生まれた大傑作。
 そうできた理由は何かと考えたら、一つにはその時代は設計にはまだ
 コンピュータが使われていなかったから、と思うのです。
 ドラフターと雲型定規、そして計算尺は人の手にもっとも近い道具だった。
 もちろんコンピューターのお陰で得られたものは計り知れない。
 しかしながら、その引換えに失われたものはある。
 
 ブライトリングのDC−3は1940年製とのこと。齢77歳。
 航空機体の寿命は離着陸の回数で決められている。エンジンは飛行時間。
 しかし機械モノである故、ブライトリングが証明しているように、部品交換や
 メンテナンスをすれば現役で(オリジナルを保ちながらでも)飛び続ける
 ことは可能なわけです。

 今はクラシックカーや蒸気機関車のイベントに大勢の人が集まるぐらい
 日本の文化民度も(未だ米欧には遠く及ばないものの)熟しているのだから、
 魅力を演出できればヴィンテージ航空機による(ショウ)ビジネスは可能では
 ないか。零戦は言わずもがな、YS-11の姿を見たい人は少なくないと思う。
 どなたかソロバン(計算尺と共に死語ですが、ここは敢えて、笑)を弾く
 奇特な御人は居らんぞや、などと考えてみるてすと。

 以前ブログで書きましたが、DC−3は今でもフライトできる所があるそうな。
 アフリカではいまだに輸送機として使われているという話も。
 そういうのを追いかける旅もいいかも。翼を味わう夢の旅。
 僻地への時差ボケに爆音の拷問がもれなく付いてくる、笑
 それこそブライトリングのナビタイマー1個ぐらいの値段で叶うのではない
 でしょうか。


  

 えっ 零戦の方の話はどうしたって? 
 メディアで取り上げられているので天邪鬼に割愛。その姿は感動的では
 ありましたが、できれば栄のエンジン音が聴いてみたかったですね。

 
 

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2017年5月13日 (土)

白い花

 
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 しかし私が寄り添わなくても、こうして我が家の蜜柑の樹に花は咲く。
 可憐という字を形にしたら、きっとこんな白い花弁になる。
 ほんの1週間ほどの命は短い。

 大きなミスジクロアゲハが、ふらふらふらと樹の周りを飛び回っている。
 羽を休め産卵する葉はとっくに決めているくせに、それでももっと素敵な
 若い葉を探し選り好みするように、思わせぶりするように。
 蝶と蜜柑の樹の間には、明らかにコミュニケーションがある。

 モンシロもジャコウもアゲハも、おおよそ蝶の振る舞いはシャイだ。 
 そしてある日、ひと夏を待たず役目を終えた後の蝶は、地面で大勢の蟻に
 取り囲まれている。
 最初に失くなるのはキラキラしていたはずの羽の部分で、みる影もない。
 蟻はただ奴隷のように忙しく動き回り、蝶とともに蟻もまた誰かに
 使い捨てられる。捨てられた蟻をまた動いている蟻が運んで行く。

 彼らの命の長さは必要以上にはプログラムされていない。
 けれど遺伝子というワンタイムのパスワードを繰り返し使うことで
 子孫は長く遠くまで行くことができる。
 自分たちの命を延ばそうとする、することができるのはヒトだけではないか。

 儚さを感じこそすれ、彼らにものの哀れさはない。
 約束通り、土へ還るからだろうか。
 花や蝶を美しいと感じるのは、ひとつは潔さにある。

 
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2017年3月31日 (金)

Spring Time

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 そんなわけで、今年も蜜柑の時期がきた。
 昨年よりもまた収穫の数が増え、250個以上は採れただろうか。
 ほとんど皮の黒ずみがなくて、出来が良い。豊作です。
 一日では採り切れず、2週に渡っての作業に首と肩が痛くなる。。

 週末の夜、これまた例年のごとくせっせとジャムを作る。
 今年のテーマは、「ジャムおぢさん4.0」
 煮詰める途中の灰汁の吹きこぼしの回数を1回多くして、
 苦味とエグ味が更に弱くなるように。皮を大きめに長く刻んで、
 砂糖を少なくして、軽く柔らかな、蜜柑そのものを食べているような
 味になった。ジャムのオープンイノベーションである。
 来年はクラウドに繋げる予定。なんのこっちゃ。

 母は亡くなっても、こうして春はくる。
 おそらくは自分がいなくなってもくる。いや、間違いなく。
 樹木の乍らかな営み。太陽と光合成。そして土壌の巨人、微生物は偉大だ。

 春になると思い出す話。
 桜の樹の下には屍体が埋まっている、と書いた梶井基次郎。
 すなわち桜の赤み掛る色合いは血の色によるものという。
 人々はその生命の色をみると遺伝子に刻まれた記憶によって
 血が騒ぎ、酒に酔い、踊り出し、最後はブルーシートにゲロを吐く。
 それは単なる飲みすぎか。。

 かつて我が家でビーグル犬を飼っていたことがある。
 訳あって生まれて5日目でうちへ来ることになって、まだ眼が
 見えていない日から10年、その後カミさんの実家に預かって
 もらうことになって、札幌に初霜が降りた日の朝まで5年。
 結局彼は15年を生きた。
 そして雪が溶け、春になってから、骨を庭の桜の樹の下に埋めて貰った。
 その桜の樹はカミさんが生まれた時に植えた記念のものだった。
 家族の一員として、その行いは今も善であったと思っている。

 私を蜜柑の樹の下に埋めてほしい。
 そう遺言に書いたら不謹慎だろうか。黄色人種だから、黄色味が増すかも。
 毎年の果実を増やしこそすれ、樹を枯らすことはない。
 そして初夏には白い花を届ける。約束する。

 そういえば、スペインにはブラッドオレンジという柑橘種がある。
 血塗られた歴史、フランコ政権時代の残滓の色かもしれない。
 ちがうな。。

 話が脱線しました、いつもか、失礼。
 いつの日か蜜柑の樹に寄り添えるその時まで、
 ベータ版であるジャムおぢさんが、毎年着実にアップグレードしながら
 ジャムぢいさんとして、幾久しく続きますように。


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2017年3月12日 (日)

うまのはなむけ

 親族が亡くなると、それから一年は喪に伏すことになる。

 伏す、というのは、ふせる・かくれる・うつむく、という意味がある。
 もう一方で、破れたところに他のものをあてて繕うこと、補綴(ほてつ)
 ともある。

 一年足らずで果たしてこころに空いた穴を繕えるものかどうか
 わからないけれども、いつまでも悲しみ暮らすわけにいかないから、
 時間を定めて設け、気のもちようを諭すのが仏教の慣しということになる。

 春夏秋冬、季節が一回りすることが一年で、仏教の一念とは一瞬の意識、
 一度の念仏の意味とか。

 花をたむける、の「たむける」とは、手向けると書いて神仏や死者の
 霊に供物を捧げる、とやはり広辞苑にある。
 古くは旅の平安を祈るためのものだったという。
 死は旅のひとつなのだ。
 また「たむける」とは餞別を送ることともある。
 餞別は「せんべつ」以外に「うまのはなむけ」と読む。

 私は旅が嫌いだ。
 レビィ・ストロースの「悲しき熱帯」には冒頭そんな言葉がある。
 旅のことを書いた紀行文だから、それはパラドクスなのだと
 これまで捉えていたのだけれど、この言葉を死が嫌いだ、と
 置き換えてみると違った視点が現れる。
 できるだけ死を考えずに済むように、遠ざけるため旅にでる。
 たった今(とりあえず)生きていることを実感できるように。

 なにも遠くに出掛けることが旅ではないだろう。
 一日一生という言葉があるけれど、一日を一生分と思い生きること。
 毎日の一日を、旅するように生きることで与えられた時間を豊かに
 できるものと受け取れる。なるほど。
 旅とは時間のことであるのだ。

 こんな昔の人からの言い伝えは大凡正しい。
 それってまさに時間を掛けて証明された集合知とも言える。
 信仰や宗教云々ではなく、習わしとしての言葉は多くは経験に基づく
 もので、常識という形でおおよそ昇華して信用に足るだろう。

 知といえば、人工知能の研究者マーヴィン・ミンスキーによると、
 常識とは苦しみの果てに身についた沢山の実用的な考え方からなる
 巨大な「社会」であるそうだ。。。
 なんだか良くワカリマセン。。
 こんな時は、逆に「非常識」の場合を考えてみる。と、
 非常識な人は社会から疎まれる。なるほど。
 そうとればミンスキーの言葉はスーパーコンピュータなんぞを使わずとも、
 我がヤマイだれの痴脳でもどうにか理解できる。
 一瞬では無理でも、なるほどを重ねて一年ぐらい時間をかければ。

 

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2017年3月10日 (金)

Lettre de jeunes

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 と、いうわけで帰りがけ、ミュージアムのエントランスに置かれた
 妙に大きくて分厚いに芳名帳に思うままこんなことを書いた。
 まるで子供の落書きみたいな汚い文字で。。。

 拝啓 ハンス・アルプ 様

 こんにちは。あなたのミュージアムにいよいよ来ました。
 中学の美術の教科書で、その作品とあなたの名前を知って以来
 長きにわたり気に留めてきました。
 竹橋の近代美術館にあなたの彫刻が常設で置かれているのが
 もっとも身近な作品だったでしょうか。
 あなたの創る奇妙な形や絵は、いつも人の顔や身体を想い起させ
 頭の奥底のどこかを不思議に刺激します。現代の脳科学や認知
 心理学で言えば、選択性反応ということになるでしょうか。
 ロンドンのウェストン・ギャラリーでそんなあなたのリトグラフを
 買い求めたのは2008年でした。
 コンステレーションのシリーズの一枚で、なぜその作品を選んだのか。
 それは3/10 ’59とサインが入っていたから。
 もちろんそれは1959年に作られ10枚刷られたうちの3枚目
 という意味ですが、私の誕生日が3月10日だったというコジツケ
 なのです。当時は1ポンドが200円近くしましたが、清水の舞台は
 私の為に用意されていました。
 あの日から、あなたの故郷であるこのライン川のレマゲンには
 随分と水が流れましたが、今日のこの日、ようやく訪れることが
 出来て私は幸せです。

 最後に日付とサインを書いた。
 この旅の機会を与えてくれたことに感謝を込めて。
 はたして、もう一度ここを訪れ、カフェからの風景を眺めることが
 できるでしょうか。この芳名帳を読み返したら、若気とかナルシー
 と思うかな、笑。どうでしょう。もう充分いい歳なんだけどね。。。

 若いうちに沢山の旅をしておくこと。そうしないと歳をとって
 から話すことがなくなる。
 民俗学者の宮本常一の本にはそんな風に書いてあったと思います。
 いつまでもこころに残る旅をしたいものです。

    

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