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2017年3月31日 (金)

Spring Time

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 そんなわけで、今年も蜜柑の時期がきた。
 昨年よりもまた収穫の数が増え、250個以上は採れただろうか。
 ほとんど皮の黒ずみがなくて、出来が良い。豊作です。
 一日では採り切れず、2週に渡っての作業に首と肩が痛くなる。。

 週末の夜、これまた例年のごとくせっせとジャムを作る。
 今年のテーマは、「ジャムおぢさん4.0」
 煮詰める途中の灰汁の吹きこぼしの回数を1回多くして、
 苦味とエグ味が更に弱くなるように。皮を大きめに長く刻んで、
 砂糖を少なくして、軽く柔らかな、蜜柑そのものを食べているような
 味になった。ジャムのオープンイノベーションである。
 来年はクラウドに繋げる予定。なんのこっちゃ。

 母は亡くなっても、こうして春はくる。
 おそらくは自分がいなくなってもくる。いや、間違いなく。
 樹木の乍らかな営み。太陽と光合成。そして土壌の巨人、微生物は偉大だ。

 春になると思い出す話。
 桜の樹の下には屍体が埋まっている、と書いた梶井基次郎。
 すなわち桜の赤み掛る色合いは血の色によるものという。
 人々はその生命の色をみると遺伝子に刻まれた記憶によって
 血が騒ぎ、酒に酔い、踊り出し、最後はブルーシートにゲロを吐く。
 それは単なる飲みすぎか。。

 かつて我が家でビーグル犬を飼っていたことがある。
 訳あって生まれて5日目でうちへ来ることになって、まだ眼が
 見えていない日から10年、その後カミさんの実家に預かって
 もらうことになって、札幌に初霜が降りた日の朝まで5年。
 結局彼は15年を生きた。
 そして雪が溶け、春になってから、骨を庭の桜の樹の下に埋めて貰った。
 その桜の樹はカミさんが生まれた時に植えた記念のものだった。
 家族の一員として、その行いは今も善であったと思っている。

 私を蜜柑の樹の下に埋めてほしい。
 そう遺言に書いたら不謹慎だろうか。黄色人種だから、黄色味が増すかも。
 毎年の果実を増やしこそすれ、樹を枯らすことはない。
 そして初夏には白い花を届ける。約束する。

 そういえば、スペインにはブラッドオレンジという柑橘種がある。
 血塗られた歴史、フランコ政権時代の残滓の色かもしれない。
 ちがうな。。

 話が脱線しました、いつもか、失礼。
 いつの日か蜜柑の樹に寄り添えるその時まで、
 ベータ版であるジャムおぢさんが、毎年着実にアップグレードしながら
 ジャムぢいさんとして、幾久しく続きますように。


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2017年3月12日 (日)

うまのはなむけ

 親族が亡くなると、それから一年は喪に伏すことになる。

 伏す、というのは、ふせる・かくれる・うつむく、という意味がある。
 もう一方で、破れたところに他のものをあてて繕うこと、補綴(ほてつ)
 ともある。

 一年足らずで果たしてこころに空いた穴を繕えるものかどうか
 わからないけれども、いつまでも悲しみ暮らすわけにいかないから、
 時間を定めて設け、気のもちようを諭すのが仏教の慣しということになる。

 春夏秋冬、季節が一回りすることが一年で、仏教の一念とは一瞬の意識、
 一度の念仏の意味とか。

 花をたむける、の「たむける」とは、手向けると書いて神仏や死者の
 霊に供物を捧げる、とやはり広辞苑にある。
 古くは旅の平安を祈るためのものだったという。
 死は旅のひとつなのだ。
 また「たむける」とは餞別を送ることともある。
 餞別は「せんべつ」以外に「うまのはなむけ」と読む。

 私は旅が嫌いだ。
 レビィ・ストロースの「悲しき熱帯」には冒頭そんな言葉がある。
 旅のことを書いた紀行文だから、それはパラドクスなのだと
 これまで捉えていたのだけれど、この言葉を死が嫌いだ、と
 置き換えてみると違った視点が現れる。
 できるだけ死を考えずに済むように、遠ざけるため旅にでる。
 たった今(とりあえず)生きていることを実感できるように。

 なにも遠くに出掛けることが旅ではないだろう。
 一日一生という言葉があるけれど、一日を一生分と思い生きること。
 毎日の一日を、旅するように生きることで与えられた時間を豊かに
 できるものと受け取れる。なるほど。
 旅とは時間のことであるのだ。

 こんな昔の人からの言い伝えは大凡正しい。
 それってまさに時間を掛けて証明された集合知とも言える。
 信仰や宗教云々ではなく、習わしとしての言葉は多くは経験に基づく
 もので、常識という形でおおよそ昇華して信用に足るだろう。

 知といえば、人工知能の研究者マーヴィン・ミンスキーによると、
 常識とは苦しみの果てに身についた沢山の実用的な考え方からなる
 巨大な「社会」であるそうだ。。。
 なんだか良くワカリマセン。。
 こんな時は、逆に「非常識」の場合を考えてみる。と、
 非常識な人は社会から疎まれる。なるほど。
 そうとればミンスキーの言葉はスーパーコンピュータなんぞを使わずとも、
 我がヤマイだれの痴脳でもどうにか理解できる。
 一瞬では無理でも、なるほどを重ねて一年ぐらい時間をかければ。

 

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2017年3月10日 (金)

Lettre de jeunes

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 と、いうわけで帰りがけ、ミュージアムのエントランスに置かれた
 妙に大きくて分厚いに芳名帳に思うままこんなことを書いた。
 まるで子供の落書きみたいな汚い文字で。。。

 拝啓 ハンス・アルプ 様

 こんにちは。あなたのミュージアムにいよいよ来ました。
 中学の美術の教科書で、その作品とあなたの名前を知って以来
 長きにわたり気に留めてきました。
 竹橋の近代美術館にあなたの彫刻が常設で置かれているのが
 もっとも身近な作品だったでしょうか。
 あなたの創る奇妙な形や絵は、いつも人の顔や身体を想い起させ
 頭の奥底のどこかを不思議に刺激します。現代の脳科学や認知
 心理学で言えば、選択性反応ということになるでしょうか。
 ロンドンのウェストン・ギャラリーでそんなあなたのリトグラフを
 買い求めたのは2008年でした。
 コンステレーションのシリーズの一枚で、なぜその作品を選んだのか。
 それは3/10 ’59とサインが入っていたから。
 もちろんそれは1959年に作られ10枚刷られたうちの3枚目
 という意味ですが、私の誕生日が3月10日だったというコジツケ
 なのです。当時は1ポンドが200円近くしましたが、清水の舞台は
 私の為に用意されていました。
 あの日から、あなたの故郷であるこのライン川のレマゲンには
 随分と水が流れましたが、今日のこの日、ようやく訪れることが
 出来て私は幸せです。

 最後に日付とサインを書いた。
 この旅の機会を与えてくれたことに感謝を込めて。
 はたして、もう一度ここを訪れ、カフェからの風景を眺めることが
 できるでしょうか。この芳名帳を読み返したら、若気とかナルシー
 と思うかな、笑。どうでしょう。もう充分いい歳なんだけどね。。。

 若いうちに沢山の旅をしておくこと。そうしないと歳をとって
 から話すことがなくなる。
 民俗学者の宮本常一の本にはそんな風に書いてあったと思います。
 いつまでもこころに残る旅をしたいものです。

    

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2017年3月 3日 (金)

Twilight time

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 それでもって
 もしもこの先、あなたがハンス・アルプのミュージアムを訪れることが
 あったなら、是非カフェに立ち寄って下さい。
 その19世紀の半ばに建てられたという、旧い旧い駅舎の、天井の高い、
 そのかつての栄華を偲ばせ、時の流れというものに思い馳せられるカフェを。
 その時は、もしできれば夜の帳が降り始める薄暮の刹那に。
 このカフェから眺めるライン川は、この上なく美しいと思いました。

 旅好きで知られていた英国の風景画家、ウィリアム・ターナーは、
 ある時イタリアのフィレンツエを訪れてから、その作風が一変する。
 それまでは綺麗で写実的だったものが、その場の その一瞬にしかない
 アトモスフィア、雰囲気というものを描くようになる。
 大嵐や風や水しぶき、蒸気船や霧のなかを突進する機関車のもつ力感
 といったような。それは表現するというよりも、感性の絵の具を絵の中へ
 閉じ込めようとするような抽象的な感覚。
 暮れなずむトスカーナの風景の、その雰囲気の、刹那の肌理に
 きっと心打たれたのでしょう。
 はたして、ターナーが冬の夕暮れのライン川の姿を眺めることが
 あったのかどうか、わかりません。
 でも、どこであっても、どうあっても、ターナーのスイッチは
 やがて入ることになったのではないか。
 
 イタリアのボローニャに生まれたジョルジョ・モランディは、
 その生涯のほとんどをボローニャとその近郊で過ごし、イタリアを
 出ることがなかった。薄暗いアトリエで、身の廻りのありふれた花瓶や
 水差しといった静物と、身近な風景画を描くことに没頭して、やがて
 独特な静寂の世界を手にいれる。
 もしもモランディが、ライン川の静けさを眺めることがあったなら
 別の世界の扉を開けることが出来たのではないか。
 はたしてモランディが、それを望んだかどうか、やっぱり判りかねる
 のだけれども。

 そんなことをぼんやりと考える。こんなカフェの黄昏には時々。

 
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2017年3月 1日 (水)

Hans Arp Museum

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 そうなんです。ハンス・アルプのミュージアムです。
 建築はリチャード・マイヤーです。まーいーやーじゃ
 済まされないって話です(失礼)。

 ペーター・ツムトアとは違った意味での美しき美術館です。
 ガラスと鉄骨とコンクリート、白い箱、そして樹々の緑。
 奇を衒うことなく、分かりやすく整えられた美と言える。
 マイヤーによるバルセロナの現代美術館もそうでしたが
 このコンサヴァティブな分かりやすさは、ル・コルビュジェ
 やミースといった巨匠たちが作り上げた20世紀の建築規範に
 則しているからでしょうか。それはそのまま我々が慣れ親しんだ
 建築的な普遍美とも言える。
 
 ではありふれて退屈かというと、全くそんなことはなくて
 1856年(!)に建てられたというローカル線の駅舎の上に
 跨ぎ、切り立った山の斜面に沿った建築はこの場にしかなくて、
 ここもまた唯一無二。それだけで、ここが特別な場所である
 ことを充分に示しています。
 先にツムトアのことを書いたのは、ここもまた歴史の上に
 最新の手法で重ねられハイブリッドされた建築だからでしょう。
 
 最初のファサードから、トンネルの通路を抜けさせるというのも
 美の場所へ向かう儀式としての演出でしょうか。
 古めいた駅舎の外観からは中のモダンさが全く想像できません。
 こういう演出が出来難く、場所の制約がある(日本の都市部に
 多くみられるような)美術館はおおよそ一旦エレベーターで
 フロアの一番上まで行かせて(一度閉じられた空間に入る
 ことでマインドセットを整えて)から、順路に沿って降り
 ながら観て下さいというところが多く見られます。
 この美術館も途中にまたエスカレーターやエレベータがあって、
 フロアを移るというよりは展示のステージが切り替わるかのように
 出来ています。あたかも演劇の幕替わりが進むように。

 そしてこの美術館は、登り上がって行くそのステージごとに徐々に
 山の緑が深くなり、反してライン川を挟んだ風景が開けていく対比
 が素晴らしいと思いました。

 とどのつまり、ここはサイトスペシフィック、環境適応のアートであり、
 目指したのはハンス・アルプの生まれ故郷とその歴史、凝縮された
 時間へのリスペクトなのだろうと。
 リスペクトという言葉には、尊敬という意味に加え、祈りや信仰といった
 聖的な側面があるのではないか。そう思わせるほど周囲への気遣い
 が感じとれるのでした。


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